沖縄 戦争

かつぼたつ沖縄

2008年06月17日 00:00

慰霊の日に向け
6月15日
PTAの主催で 兼城中学校の近くにある

戦跡巡りを行いました

参加者 24名

黄色いシャツで
首にタオルを巻いてるのが
僕です。



高嶺の製糖工場跡
 銃弾の跡や 今は水タンクになっている
 糖蜜タンク



「高嶺製糖工場では、日本軍の命令で戦闘中にもかかわらず、糖蜜で酒を製造していました。
斬り込み隊用ということだそうです。
製糖工場の側には、社員の家族や避難民など100人以上が隠れている避難壕があって
そこが米軍の攻撃を受け、入り口から燃え始めた。逃げようとする人々を、敵に発見されることを恐れた日本兵が
壕から出さなかったために、ほとんどが中で犠牲になったといいます。(糸満市史戦時資料下巻p418より)



戦後1946年5月ごろ、与座の人々は収容所などから帰村する事になりました。
しかし、米軍が与座泉川(ユザガー)を水源地として接収していたので、
与座泉川周辺の人々は自分たちの屋敷に戻れなかった。
それで、その下にあった高嶺製糖工場の敷地を字で購入し、そこに住むことになった。
(糸満市史戦時資料下巻より一部抜粋)」





与座の湧き水
 (ユザガー)
 涼しいブレイク







潮平壕
 500人が3ヶ月生活していた
 ガマの中に入ってみました



潮平壕は長さ150メートルの自然壕で、十十空襲の際に避難壕として利用されました。
沖縄戦では、字潮平の住民約560名が約3カ月にわたり壕の中で過ごし、昭和20年6月14日(旧暦5月5日)に一人の死者
を出すことも無く、全員無事で米軍に投降しました。



1953年10月、壕への感謝と戦争犠牲者の追悼、世界平和を願い、潮平権現として鳥居が建立されました。

毎年旧暦の5月5日に、潮平権現祭が行われています

1週間前の日曜日がその日にあたり 潮平権現祭が行われました





特攻艇掩体壕
 (とっこうていえんたいごう)
 敵艦に爆弾を積んで特攻するための
 船を隠しておく 人工の壕






ロンドンガマ
 ロンドンの由来説明など
昔、この場所がまだ海辺だった頃(現在は海岸から1km程内陸)、8人の外国人が漂流し、この穴で生活を始めたそうです。
その外国人がイギリス人で、ここから、この場所を8人の男達のいる場所という事でエイトマンと呼ばれる様になり、
それが訛って「糸満」になったとか。また、彼らが住んでいた洞穴は、
その男達が出身地であるロンドンを偲び、ここを「ロンドン」と名付けた所から、ロンドンガマになった・・とか
で、糸満の人には、イギリス人の血が混じっているので、糸満には美人が多いとか・・・





白梅之塔

県立第二高等女学校の生徒からなる「白梅学徒隊」は3月23日、
東風平町八重瀬岳にある陸軍第二十四師団第一野戦病院に配置されました。
沖縄守備隊が首里から撤退した6月4日、白梅学徒隊の野戦病院では、
いち早く解散命令が出されました。そのとき重症患者を青酸カリで処置する手伝いをさせられた学徒もいます。
その後、一部の生徒たち(16名)は再び国吉(現糸満市)にあった同部隊の壕に呼び戻され
、病院活動が再開され、看護にあたることになります。

6月21日、22日と同壕は攻撃を受け8名の生徒が戦死しました。














第二高等女学校からは4年生56名が動員されましたが、
後に10名が除隊し46名の生徒が野戦病院に勤務、そのうち17名が戦死しました。
学徒隊以外に教師8名、生徒41名、計66名が戦死しています。








轟壕
 実際に奥深くまで入ってみました



沖縄本島南部の喜屋武半島中央部から名城海岸へかけて、全長約1、2キロメートルに及ぶ
地下水脈の通った地下洞窟が形成されている。その地下洞窟は地表に開口する箇所があり、
伊敷部落の南の丘に開口しているのが「轟壕・トゥルルシガマ」です。



沖縄戦が始まる前、名城集落住民が避難壕として整備し、米軍の空襲や艦砲等には避難壕として使用していたが、
5月中旬ごろ、日本軍による壕追い出しがありました。
5月下旬から6月上旬にかけて、避難民が入ってくるようになり、日本兵のグループも入ってきた。
さらに、島田知事など県の幹部等も避難してきた。どれくらいの人たちが入っていたか定かではなく、
500から600人とか1000人以上という証言がある。



6月中旬、島田知事は「後方指導挺身隊」を、荒井警察部長は「警察警備隊」を解散させ、
摩文仁の司令部へと出て行った。壕内の日本兵は、それを機に民間人を壕の左側に閉じ込め、
見張りを立たせ米軍への投降を阻止した。食料不足による餓死者が続出、多数の死者が出たが、確かな数字は不明です。









糸州ガマ糸満市伊敷にある糸州の壕は自然洞窟、このガマは出入り口が2箇所
ありウッカーガマ、ウンジャーガマと呼ばれ
ウンジャーガマに避難していた住民は、
日本軍が使用するという理由で壕から追い出されることになる
第二野戦病院本部壕(豊見城城址公園内)は戦況の悪化に伴い、5/2
7同部隊はウッカーガマ・ウンジャーガマに移動することになった。この第
二野戦病院には私立積徳高等女学校の生徒が学徒動員されている

等を巡りました





沢山の方が無くなった戦争

PTAの行事としては重いかもしれません

でも 今子供を持っている父母の方々は

当時同じくらいの子供たちが戦争に動員されて亡くなっていったことを

認識して それが確かな平和への未来へ向けて発信する何かに

なれば幸いです


ひめゆり学徒隊が 特に有名ですが

駆り出された子供たちは他にも大勢いた事を

忘れずにいたいものです

沖縄戦当時、沖縄には21の男女中等学校がありました。沖縄戦では、これらすべての男女中等学校から学徒が戦場に動員されました。女子学徒は主に看護活動にあたり、男子学徒は上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。沖縄の全学徒のうち、2000名余が戦場で亡くなりました。

沖縄師範学校男子部 師範鉄血勤皇隊
沖縄県立第一中学校 一中鉄血勤皇隊
沖縄県立第二中学校 二中鉄血勤皇隊
沖縄県立第三中学校 三中鉄血勤皇隊
沖縄県立農林学校 農林鉄血勤皇隊
沖縄県立水産学校 水産鉄血勤皇隊
沖縄県立工業学校 工業鉄血勤皇隊
那覇市立商工学校 商工鉄血勤皇隊
開南中学校 開南鉄血勤皇隊
沖縄県立宮古中学校 宮古中鉄血勤皇隊
沖縄県立八重山中学校 八重山中鉄血勤皇隊
沖縄八重山農学校 八重農鉄血勤皇隊 / 八重農女子学徒隊
沖縄師範学校女子部 ひめゆり学徒隊
沖縄県立第一高等女学校 ひめゆり学徒隊
沖縄県立第二高等女学校 白梅学徒隊
沖縄県立第三高等女学校 なごらん学徒隊
沖縄県立首里高等女学校 瑞泉学徒隊
積徳高等女学校 積徳学徒隊
昭和高等女学校 梯梧学徒隊
沖縄県立宮古高等女学校 宮古高女学徒隊
沖縄県立八重山高等女学校 八重山高女学徒隊


















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